3,11・・・あの日

2021年3月11日

その瞬間、私は保健室で保健委員会活動の真っ最中でした。
最初の揺れから、あっという間に強烈な揺れになり、保健委員の子どもたちに
「机の下に入って!!」と叫んで、私は保健室入り口のドアを開けると、子どもたちが潜り込んだ保健室中央にある大きな机の下に駆け込みました。
すさまじい揺れでした。
正座した状態で机の下にいたのですが、そのまま左右にからだが滑って移動するのです。
保健委員の中にはパニックを起こしそうな子もいたので、その子の腰に手を回し、飛び出さないように抑えるのが精一杯でした。
校舎のきしむ音、ガラスのビリビリ音、なんとも言えない「ゴォー!」という地鳴り。
学校という集団の場にいたからこそ、何とか対応できましたが、もし自宅にいたら、パニックに陥っていたかもしれません。

あの日、被災地の養護教員達は、信じられないような体験をしました。
体育館に避難したところを津波にのみ込まれ、2階のギャラリーまで押し流された人。
地震のショックで産気づいた妊婦さんの出産を手伝った人。
避難した屋上で津波のために孤立し、「ここにいる人間の中ではあなたが一番知識があるから」と言われ、救出者のトリアージを求められ、他人の命を背負った人。
子どもたちと一緒に校舎に取り残され、寒い夜をなんとか乗り切ろうと必死に走り回って物資をかき集め、泣きじゃくる子どもたちを抱きしめて一夜を過ごした人。
そして、原発事故のために、津波や地震に加えて更なる苦難を背負った福島の養護教員達。

東日本大震災後、私には忘れられない体験があります。
それは免許更新のために、埼玉県にあるA大学で講習を受けたときのことです。
講師の方が、東日本大震災に関して、こう話されたのです。
「皆さん、保健室のように重要なところは、きちんと鍵をかけておきましょう。災害が起これば、地域の人が学校に避難してきて、保健室から救急用具を自由に持ち出すでしょう。不安に駆られて、不要なものまで持ち出すこともあります。子どもたちが帰ってきたときに、子どもたちにあげる救急絆創膏は、とっておく必要があります。地域の人は土足で入ってきますからね。久しぶりに学校に行ったら、保健室のベッドに妊婦さんが寝ていた、なんてなったら大変でしょう?」
腹が立ちました、すごく! 怒りのあまり、その後の話は頭に入りませんでした。
保健室に妊婦さんが寝ていて、何が悪いんでしょうか。私なら率先して寝てもらいます。
冷たい体育館の床に寝るより、どんなにいいか・・・。
保健室の救急用具も「どうぞ使ってください」です。救急絆創膏を1枚多く持っていくことで安心できるなら安いものです。あの時、地震や津波、原発事故に襲われた地域の人たちが、どんな状態で、どんな気持ちでいたか、それを考えたら、保健室は救いの場だったはずです。鍵など必要ありません。
実際、保健室が震災直後の診療所の役割を果たした学校はたくさんあります。
それは「保健室に鍵をかけておいて、救急用具を地域の
人に提供しなかった」から、できたわけではないのです。
被災後、体育館のステージの隅に作った臨時保健室で、養護教員と一緒にいる子どもの穏やかな表情を見たことがあります。そうです、保健室は、保健室という入れ物や救急用具で成り立っているわけではないのです。

あれから10年。
前を向いて大きく復興をとげた所もあります。でも、何も変わらない所もあります。
2016年、福島県相馬市にフッ素洗口の講演に行くため、帰還困難区域をバスで通り過ぎたことがあります。今にも家から人が出てきそうな、あの日そのままの光景を見て、涙が止まりませんでした。

「この10年、日本は何をしてきたのだろう」というやり切れない思いは、今も残ったままです。

ようやく春・・・。あの日は雪まじりの寒い日でした。