養護教員の役割

2018年7月3日

カテゴリ:理論編, 養護教員の役割

 最初に述べましたが、養護教員は多忙です。保健室に舞い込んでくることをこなすだけで目一杯!という声も聞こえてきます。さらにその上保健教育なんてやりたくてもやれない、という学校もあるでしょう。でも、やれることからやってみようかな、という学校もあると思います。

 わたしは養護教員が「教員」であることを生かしたい、と考えています。保健室や養護教員は教育を行う場であり、教育を行う職種であると思うのです。保健室から発信される保健教育が、教育課題である学校保健の推進に大きな役割を果たすことは間違いないのです。自信を持って、教育としての学校保健を推進する。それが養護教員の役割の一つではないかと思っています。

  確かに保健教育の教材づくりは大変です。でも、一方で楽しい行為でもあります。子どもたちの顔を思い浮かべ、どんな反応をするのだろう、さらにわかりやすいものにするにはどうしたらいいだろう、など様々なことを考えながら作成します。教材づくりの基本の全ては、子どもたちなのです。

                              
 だからいろいろな意味で、子どもたちはわたしにとって「先生」です。保健室でも、廊下でのちょっとした会話でも、もちろん授業でも、子どもたちから教わったたくさんの事柄の積み重ねが、教員としてのわたしの力量を高めてくれ、それが養護教員としての実践に生かされてきたと思います。

 そして、何より優先させなければいけないのは、子どもたちが「健康に生きる学力」(数見先生使用)を身につけることのできる学びを、どう組織できるかということです。そのあり方は学校の実態によってそれぞれだと思います。でも養護教員がその中心になって教育実践を進めることも、きっとできると思うのです。

「観」を育む

2018年6月27日

カテゴリ:理論編

 さて「生きて働く認識」を育むべく、教材を作り、実践を重ねる内に、ふとあることに気がつきました。
 たくさんの「からだの学習」を繰り返していくと、子どもたちは明らかに変化していきます。目に見える形で歯みがきをするようになったり、おやつの内容を選ぶようになったりもしますが、それ以上に、からだや命についての見方、「観」が変化していくのです。

 「観」にはいろいろなものがあります。「からだ観」「生命観」「病気観」「健康観」・・・etc。

 当然のことですが、自分のからだや命を大切だと思っている子どもは、からだや命を粗末にはしません。そう考えると、「観」はわたしたちの生き方を決定づける、大切な要素だとも言えます。だから、できるだけ偏りのない様々な視点からの「観」を形成する必要があります。

 例えば、わたしたちは一生の間、どのくらいの期間「病気でない状態」でいられるのでしょうか。日本人は1年に平均4~5回かぜをひく、と言われています。子どもであればもっと回数は多くなるでしょうし、大人になれば生活習慣病にかかる人も増え、年齢と共に病気になる割合はますます高くなります。そう考えていくと、わたしたちは一生の間のかなりの時間を「病気」とつきあっていかなくてはならなくなります。さらに障がいや慢性の病気を持っている人は、人生のほぼ全部を、その障がいや病気と上手につきあいながら生きていくことが要求されます。

 確かに、健康であるにこしたことはありません。しかしその一方で、病気とともに生きていく時間も長いのだとすれば、学校での保健教育も、「健康である」ということにだけに主眼をおいては不十分だということになります。成長期にある子どもにとっては、発達が保障されるということは生涯にわたって大きな影響を持つことですから、大切なことです。と同時にからだは万能ではない、ということも、病気や障がいのあるからだと上手につきあうのも必要である、ということも教えていかなければなりません。

 つまり、人間の多様なあり方を受け入れられるような「観」が、これからを生きる子どもたちには必要なのです。そのためにも「からだの学習」は、効果的な方法であると言えると思います。

「生きて働く認識」にする

2018年6月27日

カテゴリ:理論編

 「1,からだの学習との出会い」でお話ししたような「先生の説明はわかったけど、それだけ」は、なぜ起きるのでしょうか。数見先生の理論に出会い、多くの養護教員仲間をはじめとした様々な方からの教えを聞くうちに、その問題の原点は、子どもたちの「わかった」にあるのではないか、とわたしは考えました。

 数見先生やその研究仲間の皆さんの実践を見ると、授業の中で教師が長々とからだの仕組みやその大切さを説いている場面がほとんどありません。授業の中心になって、持っている知識や経験を活かし喧々学学の議論を展開しているのは、子どもたちなのです。その結果、子どもたちは様々なことに気づき、納得し、変化していきます。つまり、子どもたちの「わかった」の質が大切だということです。

 子どもの思いや感覚が揺さぶられ、「なあんだ、そうだったのか」と納得したり、「すごい!そんなふうになっているのか」と驚いたり、「誰がそんなふうに作ったの?」と不思議に思ったり、「うまくできているもんだ」と感激したりする、といった内的変化を伴った学びの質の深さがあればいいのではないか。新しい発見があったり、これまで経験的に考えていたことを打ち砕くような驚きがあったり、感動したりする指導が、「わかった!」という実感を子どもに持たせ、意欲や意思を形成し、実行に向かう姿勢を形作るのではないか。そんなふうに、わたしは考えました。
 

 数見先生は、知識がわたしたちの意欲や行動につながる場合、それは単なる「知っている」という程度のものとは違う、「生きて働く認識(自分の現実や課題と結びついた知識=納得知)」である、としています。そして、「生きて働く認識」にするには、「学びの質」が重要であることも示唆しています。

 この考えに基づくと、やはり今までのように養護教員が一方的に説明をするだけでは不十分だということがわかります。子ども自身を学びの主体におき、子どもたち自身が考えたり、疑問を持ったり、悩んだりしながらその中で内的変化を引き出していくことが必要なのです。そして「すとん!」と腑に落ちた「わかった!」を何度も繰り返し体験させていくことで、「生きて働く認識」が形成されるのだろうと考えたのです。
 
      参考資料   数見隆生著   「教育としての学校保健」  (青木書店)
                            〃     「教育保健学への構図」   (大修館書店)
                    「健康の認識を育てる」   

「からだの学習」との出会い

2018年6月26日

カテゴリ:理論編

 養護教員の1日は多忙です。けがや病気の対応はもちろんのこと、不登校や保健室登校の子どもたち、いわゆるやんちゃなお兄さんやお姉さんたちもよく保健室にやってきます。それに先生方にとっても、保健室は憩いの場です。「ちょっとミルミル先生、聞いてよ・・・」と子どもではなく先生方が飛び込んでくるときもあります。

 しかしこれらの活動の多くは、個別指導が中心です。からだの異常への対応や子どもの心や生き方と向き合うことも大切な活動ですが、保健室に来室する一部の子どもたちだけが、保健教育を必要としているわけではありません。全ての子どもたちに、自分のからだと命の主体者となり、豊かで実りある人生を送る力が必要なのです。そしてその力をつけることが、学校保健そのものの目的の一つでもあります。必要なのは、からだや命、病気などに関する知識と行動。そこで養護教員は様々な場を捉えて、知識を提供するための保健教育を実践してきました。知識を提供することで、行動も変化することを願って・・・。

 でも実際はどうだったでしょうか。たくさんの知識を子どもたちに事細かに説明したのに、なかなか行動が変わらない、問題が解決しない、といった結果に終わってしまった、といった経験は、養護教員なら一度ならずあると思います。つまり「先生の説明はわかったけど、それだけ。」といったよくあるパターンです。

 「一体何が足りないのだろう」と悩みながら毎日を過ごしていた頃、当時宮城教育大学教授だった数見隆生先生の理論に出会いました。そしてその理論をわたしなりに解釈し、養護教員が発信する保健教育として30年以上にわたって追求してきたものが「からだの学習」です。