「悪いのはコロナ」は本当?

2021年9月9日

性の学習に3年1時限目と3年2時限目をUPしました。

現代社会が抱える問題の一つ。現実社会でもインターネット上でも、誰かを悪者にして、怒りの矛先をそこに向け、徹底的に叩く・・・という現象。五輪の選手やドラマの出演者、犯罪を犯した人や、時によっては全くの社会的弱者と言われる人までターゲットにして、最悪の場合その命が失われるまで追いつめる、という行為は、教育の場できちんとした指導がなされるべき、まさしく「教育課題」の一つでもあります。
その基本姿勢は、五輪では成し遂げられなかった「多様性と共生」。
つまり、人間自身が、自然を構成する一つの生き物であり、その点ではウイルスや細菌と何も変わらない「共生」しているものであること、そして、多様な生き物が助け合ったり殺し合ったりしながら生きているのだという事実に、きちんと向き合うことが基本ではないでしょうか。新型コロナウイルス感染症と人間の関係も同じです。悪いのは、共生を否定し、コロナに感染した人を「差別する行為」であり、「差別する発想」でしょう。コロナウイルスではありません。

感染者への差別をなくしたい気持ちはわかりますが、だからといってコロナウイルスを悪者に仕立て上げ、非難の矛先をそちらに誘導するのは教育の役割ではありません。
そもそも感染症が流行するのは、だれか(あるいは何か)が、悪いことをしているからなのでしょうか。病気になるのは、そんなに悪いことなのでしょうか。
私たちは一生の間に様々な病気や事故とつき合わざるを得ない生き物です。パラ五輪の選手の中に、生まれた後に障がいを負った人がたくさんいることをみても、それは明らかです。
大切なのは、その中でどう生きていくか、ということだと思います。「悪いのはコロナだからね」と教室で指導すれば、子どもたちは「そうか。コロナをやっつければいいんだ」と非難の矛先をウイルスや細菌、身の回りの「汚い」「弱い」と言われているものに持っていくでしょう。もしかすると、同じ教室にいる「バイキン」とあだ名される友達に向かうことだって考えられます。繰り返しますが、悪いのは「差別する行為」「差別する発想」なのです。これがなくならない限り、「多様性と共生」は実現しないのです。

教育の場にある者は、自分が発するメッセージや内容に敏感であるべきです。
いわゆる「隠れたカリキュラム」がないか、十分に検討するべきです。これは「忙しいからできない」では済まされない・・・私は自分自身の自戒を込めて、そう考えます。