えっ、体育? はあ?学活・・・?

2024年4月13日

カテゴリ:その他

とんでもない回答が返ってきました。

4月3日、立憲民主党の堤かなめ議員が国会厚生労働委員会で、学校でのフッ素洗口について、「フッ素洗口は教育なんですか?」と質問してくださいました。ありがとうございました。

その回答がこちら
「体育科における口腔の健康を保つこと。特別活動における心身の健康の保持増進として実施する場合は、教育活動に位置づけられ、教員の活動となる」

おやおや、今まで主張してきた「保健管理の一環として」はどこに?
この「保健管理の一環」という理論もすでに破綻した理論でしたよね。なぜなら学校で実施される保健管理は、健康診断結果に基づき、学校生活を支障なくこなし、学習能率を上げるための内容に限定されているからです。
むし歯は、学校生活や学習にはほぼ影響はないので、学校での保健管理の一環には該当しません。

では「体育(保健体育でしょうね)や特別活動」に本当に位置づけられるのでしょうか。

何度も言いますが、フッ素洗口は単なる化学反応ですから、「教育」とはかけ離れた行為です。
文部科学省官僚ともあろう方々が、「教育とは何か」が理解できていないはずはないのですけれどね。
ですから、そもそもの前提が間違っているのですが、百歩譲って保健体育と学活で考えてみると・・・

口腔の健康が取り扱われるのは体育科の中で保健の領域ですが、そもそも保健は小学校3年生にならないと行われない授業です。
小学校1,2年生には保健はありません。

さらに3年生以上の「保健体育」の教科書にも、「歯みがき」しか出てきません。
唯一「フッ素」が出てくるのは、小学校5年生の、しかも東京書籍と文教社の教科書のみで、もちろん「指導要領」には「フッ素」は一言も出ていません。

このHPでもお知らせしたように、発展教材として「フッ素について教える」ことは可能ですが、実際に「洗口をする」ことは全くの別物です。

従って、保健体育の一環としてフッ素洗口をする根拠はどこにもありません。

では、特別活動の学級活動ではどうでしょうか。

特別活動は年間35時間の計画が組まれています。およそ週1回です。
おおまかに内容を説明すると・・・
まずは、学級生活をよりよくするため、子ども同士の様々な話し合いが計画されています。
これは、年間結構時間をとります。

そのほかに日々の生活の様々な指導や安全、給食に関する指導なども含まれます。
文部科学省の回答にあった「心身の健康の保持増進」はここに含まれますが、あくまで指導内容の一部にしか過ぎません。
学校によってはこの領域で性教育や歯と口の健康教育(授業です)、薬物乱用指導や喫煙防止指導なども行われます。

そして、キャリア教育もこの学活の中で行わなければなりません。

指導要領の学級活動のページには、10項目にわたって授業内容が列挙されているのです。
それを35時間で行わなければなりません。

単純計算して  35÷10=3.5時間となります。

フッ素洗口は1回10分かかるとして、全ての時間をフッ素洗口に当てたとしても、21回しかできません。
しかも前述のように喫煙防止指導や性教育、薬物乱用防止指導、さらに給食指導も含めての3.5時間ですから、明らかにフッ素洗口という「教育ではない活動」に時間を割り当てる余裕は、全くないのです。

そしてもう一つ。

文部科学省の言うように体育科や学級活動に含めるのであれば、授業時間中に実施しなければ変ですよね。
学級活動の10分だけを切り離して、給食後に行うなんて、あり得ません。

ちゃんと現場の動きを考えて回答して欲しいな、文部科学省・・・・。

結論。今回の回答を教育委員会に突きつけてみましょう。
「文部科学省はこう言いました。だから学校でのフッ素洗口の実施は無理です。」と・・・。(そう簡単にはいかないことは十分承知です)

ちなみに文部科学省は堤かなめ議員にこうも答えています。
「学校現場は多忙なので、可能な限り負担軽減するよう、教育委員会に要請している」
これも、教育委員会に伝えましょう。

(HP「フッ素・子どもと未来」にも掲載)

 

フッ素洗口の効果検証結果

2024年3月24日

カテゴリ:その他

前回の投稿で、「東京、神奈川、大阪、兵庫、広島、岡山、宮城、群馬の皆さんは、フッ素洗口導入に気をつけて」とお知らせしましたが、案の定、各地から「フッ素洗口の話が出てきた!」という連絡を頂きました。
まずは、導入を阻止する活動が必要ですが、そのために心強い資料ができあがりました。

ほぼ同じ内容を、HP「フッ素・子どもと未来」のカテゴリー「何が問題なの?」に載せてありますので、そちらで読んだ方もいるかもしれませんが、一人でも多くの方に知ってもらいたいので、こちらにも書きたいと思います。

そもそもは、ある歯医者さんが作成された「2006年から2017年までの全国都道府県別DMFTの減少率比較」でした。このデータの元になったのは、A県が作成した「2006年から20017年度までの全国都道府県別DMFT」の変化を一覧にした表です。この表を作成したA県では、「フッ素のおかげでむし歯(DMFT)がこんなに少なくなりました」という根拠に使われたようです。

そこで、その歯医者さんは「単にDMFTで比べると減ったように見えるが、減少率で見たらどうなのだろう」ということで、各都道府県のDMF(むし歯の経験総数)の「減少率」を計算してくれました。

すると、たくさんの学校でフッ素洗口をしているA県のようなところが、必ずしも減少率が大きいわけではないことがわかったのです。

フッ素洗口とむし歯の減少率をはっきりさせたグラフが、次のものです。

 

縦軸は2006年から2017年までの間の、むし歯経験のある歯(DMF)の減少率、横軸は2006年と2017年のフッ素洗口経験者数の平均です。(データがきちんと残っている22都道府県のみの結果です)
フッ素洗口を実施している子どもが多ければ多いほど、「フッ素洗口でむし歯が減る」のであれば、減少率は大きくなり、横軸で右に行くほど、青色の点は上に集中するはずです。

しかし実際は・・・?
このグラフのいわば中央値を示す回帰直線(青の点線)も、「フッ素洗口でむし歯が減る」のであれば、右肩上がりになるはずなのですが・・・・?

それどころか、僅かですが右肩下がり・・・?

つまり、フッ素洗口実施率とむし歯の減少率には、相関関係が無いことになります。

ただ、このグラフでは、学校で実施されているフッ素洗口以外の要素が排除されていません。
むし歯予防教育を自治体あげて熱心に実施している県もありますし、シーラントや歯間ブラシの使用、昼の歯みがきをほとんどの学校で実施している、ということろもあります。

しかし、それでも減少率だけを比べた時点ですでに、フッ素洗口の効果は見られません。
現場からの声によると、「フッ素洗口をすると、安心して歯みがきや健康週間がおろそかになる」という現象が見られるとのこと。そういった影響も、このグラフには加味されている可能性もありますが、そうだとすると、フッ素洗口でむし歯がへるどころか、かえって逆効果、ということすら考えられます。

もう一つ、2022年のDMFと減少率を比べたグラフも紹介します。

 

どうですか?
このグラフの「洗口実施率」は、小学校のみの実施率です。全国では、中学校より小学校での実施率が高いので、小学校だけのグラフも作ってくださいました。
こちらは全国47都道府県のデータです。

やっぱり、右肩下がりになってしまっています。
回帰直線もほとんど変化がなく、相関関係はみられません。

ほぼ100%に近い子どもたちがフッ素洗口を実施している県と、全く実施していない県の減少率が同じ・・・・。
統計的には、1つ1つの点より回帰直線が優先されて考えられるのでしょうけれど、こんなグラフを見ると、なんだかがっかりしますね。

ここでは紹介しませんが、HP「フッ素・子どもと未来」には、17才のむし歯保有率のグラフも載っています。
すでに12才でほとんど相関関係が無いので、多分17才でもないだろうことは予想できると思います。
回帰直線は完全に真横、グラフの横線と平行でした。
興味のある方はHP「フッ素・子どもと未来」をのぞいてみてください。

「こんな無駄な作業に、わたしたちは事故がないよう気を張って、副作用を心配し、誤飲しないかハラハラしながら手伝わされているのか」と、養護教員の立場から考えると、無性に腹立たしくなります。

何度も言いますが、フッ素洗口はどう頑張っても教育にはなり得ません。
また「学校生活を円滑に送るために」実施される保健管理にも該当しません。
たんなる医薬品を使った医療的行為、フッ化ナトリウムという薬品の化学反応です。

フッ素洗口は、養護教員や担任の、そして学校が担うべき事ではないのです。
そのことを、みんなで訴えていきましょう。

 

 

 

 

 

 

学校保健安全計画

2024年3月24日

カテゴリ:ほけんだより, その他

3学期がようやく終了し、人事異動もあり、せわしく過ごすうちにまた新学期が・・・。
「学期末と新学期の間に1ヶ月くらいの休暇があったらいいのに」なんて、贅沢な願望を抱きたくなりませんか?ミルミルは、しょっちゅう思ってます。

それでもしっかりと新学期は「すぐに」やってきます。

最初にするのは「学校保健安全計画」の作成でしょうか。
地域によっては「作成しなくていい」というところもあるようですが、ミルミル小中学校では、提出を求められます。

そこで、学校保健安全計画の1例として、過去にミルミルが作成した計画を載せてみました。

皆さんが作成する際に、使えるところがあったら、あちこち切り取って使ってくださいね。
タイトルが「健康教育年間計」となっていますが、これは「学校保健安全計画」の保健分野として作成しているためにこうなったものです。
バージョンは、小学校用です。

 

2024年3月11日

2024年3月11日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

13年前、年度末の進学や進級、出会いと別れのシーズンを迎え、希望に満ちていた3月11日を襲った地震と津波・・・あの日がまたやってきました。
改めて、犠牲になったたくさんの方に心より哀悼の意を表します。

13年経っても復興が全く進まない地域もあり、特に福島県の放射性物質が残ったままの地域は、時間の流れの中に飲みこまれそうな気配すらあります。でも、「フクシマ」を絶対に忘れてはいけない。

一方で、3,11以前とは違った形で、前に進んだ地域もあります。

「還暦以上は口を出さない」方針で、地域の復興に取り組んだ女川町もその一つです。

女川町では、震災から8日目に民間の有志がプレハブ住宅に集まり、町づくりの準備会が開かれています。
まず、この迅速さに驚きです。
女川町で3,11の被害が少なかったわけではありません。15メートルほどの津波が押し寄せ、200人を超える方が亡くなりました。そして4000棟を超える住居が津波の被害を受けた海沿いの町が女川です。

その女川町では「復興に10年、定着まで10年かかる。20年後に女川で生活する30代、40代に町づくりを任せる」という方針をとり、1ヶ月後には「女川復興連絡協議会」が結成されたのだそうです。

つまり、若い力が地域の復興を支え、町を新たな形に作り替えていったのです。
できあがったのは、以前の女川とは違った様子の町でした。

「口を出さない」と決めた還暦以上の皆さんもすごいですが、それに答えた若者たちの力にも感心します。
そう考えると、今学校現場にいる子どもたちも、地域を支え、新たな町づくりを進める力を持っているということになります。

能登半島地震でも、きっとこれからの地域を支えていくのは、若い力だろうと思います。
高齢化や少子化は確かに問題ではありますが、目の前にたくさんの子どもたちがいるのも事実です。その一人一人が、能登半島地震の被災地を復興する力を持っているのです。

私たち教職員は、そういった未来の担い手を育てている責任を忘れてはいけないと思います。

ただ、女川町にも福島や石川と同様原子力発電所があります。
女川原発は福島第一原発とは違って、同じ海沿いでも海抜13メートルの少し高台にありました。そのため、被害も大きくなく、幸いにも福島第一原発のような状況に陥らずにすみました。

もし、女川原発で福島と同様の被害が出ていたら、今の女川町はきっと有り得なかったと思います。

新しい町づくりは若い力に任せることができますが、今あるふるさとをその若い力に引き継いでいくことは、大人が責任を持ってしなければいけないこと、ではないでしょうか。

未来は必ずやってきます。
どんな未来になるのか、それを決める力を私たち一人一人が持っているのです。
もちろん、あなたも・・・。

 

 

 

 

 

 

被害を少しでも減らすために 2

2024年2月29日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

前回に続き、チェック項目。

「Ⅱ、ソフト面のチェック項目
1,教育計画書に学校防災マニュアルがあり、津波への対応が書かれているか。
2,津波を想定した避難の指導・訓練が行われているか。
3,登下校中に津波が発生したときの対応は行われているか。
4,子どもたちに津波に関する防災意識を育てる教育(授業や学活指導等)を実施しているか。
5,職員会議やPTAの会合で、津波を含む防災に関する協議を行っているか。
6,震災発生時の情報収集の仕方は誰がどのように行い、どう共有するか決めているか。

Ⅲ、学校と家庭・地域との連携面のチェック項目
1,震災時における保護者との連絡体制や引き渡しのルールが明確になっているか。
2,津波防災に関して家庭(保護者)との情報交流をどの程度行っているか。
3,子どもたちが家庭にいたときに津波が発生した場合の働きかけを保護者に行っているか。
4,学区内では学校を含む地域ぐるみ(地域組織・行政等)で防災活動はなされているか。
5,行政による学区内にある津波時の避難場所や危機情報等の条件整備・情報提供をどう思うか。
6,教育行政は教員を対象にした津波に関する防災研修を行っているか。    」

(以上「子どもの命と向き合う学校防災」(数見隆生著 かもがわ出版)、「学校防災のためのチェックリストとそれに基づく検討」より抜粋)

学校は災害時の避難場所に指定されていることが多いのですが、その指定はあくまで自治体の決定であり、学校が進んで引き受けたものではない、というのが現状です。そのため、学校が避難所として機能するかどうかの検討が十分とは言えず、3,11の時は避難所なのにもかかわらず、学校に津波が押し寄せてきた、という事例がかなりみられました。

津波が押し寄せれば1階に備蓄してあった災害対策用品は、あっという間に流されてしまいます。
そもそも備蓄品が十分あるかどうかも大きな問題になるでしょう。

今回の能登半島地震も同様でしたが、3,11の時も地震発生と同時に電気の供給が止まり、正確な情報を得られないケースもありました。携帯もつながらず、機転を利かせた先生がカーラジオではじめて津波の情報を把握した、という学校もありました。

また、3,11の時は、地震後に迎えに来た保護者に引き渡したことで亡くなってしまった子どもが100人近くいます。一方で、迎えに来た保護者に子どもを引き渡さず、親共々高台に逃れ、全員助かった学校もあります。

そもそも岩手県では、過去の地震や津波の経験から「津波てんでんこ」という教訓が言い伝えられています。津波が来たときは、それぞれが高台に逃げるように、という教訓です。

「釜石の奇跡」と取り上げられた宮城県釜石地区の小中学生が、互いに声を掛け合って一斉に避難する姿は、テレビ等でも取り上げられましたが、同様に釜石地区では自宅に1人でいた小学校1年生まで、真っ先に一人で高台に逃げていったそうです。
この小学校1年生は、事前に学校で教わっていた地震や津波の際の避難方法を思い出して行動したのです。

 


今回の能登半島地震に関する報道で、地震や津波に対する不安を抱いている子どもたちはたくさんいると思います。
「恐怖心をあおるから津波や地震の話はしない」では、救える命も救えません。
子どもたちが不安を抱いているからこそ、「そんな時はこうするといいよ」「こうすれば安全だよ」という情報をきちんと与えるべきだと思うのです。

繰り返しますが、「明日は我が身」です。過去の地震や津波の教訓を活かすことこそが、苦しい思い、悲しい思いをした多くの被災者の方の思いに答えることになるのではないでしょうか。

能登半島地震の被災者の皆さん、養護教員の皆さん、少しずつですが光は見えつつあります。
その光に向かって、歩いて行きましょう。

 

 

 

被害を少しでも減らすために 1

2024年2月28日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

1月1日の地震以降、3,11のフラッシュバックと同時に「3,11の教訓を伝えなければ」という思いで書き続けてきた「3,11からの伝言」ですが、2月で一度中断したいと思います。

もちろん、被災地の復興はまだまだだろうと思いますが、少しずつ光も見えつつあります。今後は、必要な情報があったときに、加筆していきたいと考えていますので、時々は覗いてみてください。

さて、最後に。

地震列島日本で、3,11の教訓を活かしていただくための内容を2回にわたってお伝えします。

「子どもの命と向き合う学校防災」(数見隆生著 かもがわ出版)より、「学校防災のためのチェックリストとそれに基づく検討」と題してある部分を抜き書きしてみます。

これは、3,11を経験した著者数見隆生先生が、その経験と、ご自身の出身地である和歌山県や東南海地震の被害地域を想定して、「学校の防災リスク」をチェックするためにまとめられた内容です。
全国、もちろん能登半島地震の被災地も含めて、全ての学校で実施されれば、今後起きるであろう自然災害の被害を少しでも少なくすることにつながります。

チェック項目は大きく3つに別れていて、それぞれに具体的な項目があり、さらに①~③までの条件が設定されていて、それによって総合判定ができるようになっていますが、ここでは項目のみを紹介します。

 

「Ⅰ,ハード面のチェック項目

1,学校所在地の海岸線からの距離
2,海からの河川の流入の有無
3,学校所在地の海抜
4,学校所在地のハザードマップで、津波時に浸水地域に入っているかいないか
5,学校近隣に避難しうる高台(山、丘、避難ビル等)の有無
6,学校校舎の階層及び避難可能な屋上の有無

ハード面の大きな指標として6つの項目を選定したが、中でも学校の所在地が高台にあると言うことがとりわけ大きな安心材料である。」

3,11の時は、自治体が作成したハザードマップは正確ではありませんでした。「津波到達地域」以外のところでも津波がやってきて、被害を出した学校はたくさんありました。いわゆる「想定外」がたくさん起きたことになります。
ですから、ハザードマップだけで学校の安全性を考えるのではなく、数見先生は6つの項目をその条件として設定する必要がある、と考えられたのだと思います。

 

 

後方支援「まちかど保健室」2

2024年2月27日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

4/1・・・炊きたてご飯、つけもの、うめぼし、お菓子、水などを軽トラックに積み、街角に立つ。壊れた家、倒れた木、水につかった家の間を歩きながら、人影を見つけると声をかける。「食べてください」疲れ切った顔が明るくなる。「今、この子等と流された家を見てきたんです」

それからずうっと、少なくとも週1回は食べたいだろうと思う心ばかりのものを、軽トラックに積み、被災地の街角に立った。軽トラックの周りには人々が集まってくれて、涙ながらに再開を喜び合うシーンもあった。顔なじみの方もでき「つけもののおばちゃん」「いなりずしくれた人」と言ってもらえるようになった。同時に「わたしたち、もうがんばれない」とか「避難所では泣けない。みんなつらいから」と涙をこぼす方もいた。それはまるで街角の保健室のようだった。そして、みんな泣くのを我慢している。必死に前を向こうとしている。子どもたちも何かを我慢している、と感じた。

4/18・・・あの日、屋上で一晩、500人以上の子どもたちが過ごしたK小学校に、掃除用具、駄菓子、先生方の昼ご飯、本を持ち、伺う。避難している子どもたちが3人、校庭で遊んでいた。雪の降るあの夜、先生方は屋上で机やロッカーを燃やした。暖を取るために。真っ暗な夜、救助の灯りとなるように。そして、子どもたちが流される人や車や家を見ないように。K小の養護教諭も対応してくれた。本当にみんな頑張っている。」

                          

宮城の仲間は、その後も「まちかど保健室」として被災地に立ち続けました。その中で本当に必要なのは物資以上に「愚痴をこぼせるところ」「何でも言えるほっとする場所」であることに気づいていったようです。物資を運びながら、たくさんの人の話を聞く活動を続けたのです。

さらに被災地への支援以外に、小児科医である山田真さんの活動にも協力していました。山田さんは、当時福島の子どもたちの放射線被爆を何とかくい止めようと、自費で福島県や近隣の県で「健康相談」を実施していました。

現在、当時の仲間たちの多くは学校現場をリタイアしましたが、この活動は「まちかど」から宮城県涌谷町に舞台を移し、地域の皆さんが「ふらりと立ち寄れる心の安まる場所」としての「まちかど保健室」を運営しています。

支援の方法はいろいろあります。
そしてみんなが願っています。1日でも早く、復興しますように・・・・と。

後方支援「まちかど保健室」1

2024年2月26日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

昨日まで今年2度目の3連休でしたが、被災地の養護教員の皆さん、少しお休みできましたか?
自宅が被災しているようなら、もしかすると休日返上で後片付けをしていた方もいるかもしれません。
腰とか肩とか、痛くありませんか?湿布薬ありますか?遠くからミルミルが「エアマッサージ」しましょう。

今、石川県にはボランティアの方が入り始めているようですが、ライフラインや宿泊施設等の復旧が十分でないため、長時間ボランティアが働けず、なかなか作業が進まないようです。

3,11の時も、全国からたくさんのボランティアの方が来てくださいました。能登半島地震では行っていないようですが、3,11の時は教職員が、被災した小中学校の手伝いに入り、後片付けはもちろんのこと、授業にTTで入るなどの支援も行いました。

そして、全く違った方法で後方支援した人たちもいました。

動いたのは、宮城県内の比較的被害が少なかった地域の養護教員たちでした。

当時の様子を2回にわたって載せたいと思います。

 

「(2011年)3/27・・・軽トラックに、防寒着・下着・靴・水・おにぎり・クッキー等を山ほど積み石巻に行く。道は所々陥没し、倒壊した家や塀もある。やがて石巻市内に入る。津波で運ばれた泥で歩道が埋まり、国道も泥道で障害物が多い。この地に直後から、全国のボランティアが入っているというが、いったいどうやってきたのだろうと思う。道に大きな船が流されている。
  

先輩養護教諭の家の前は、流された車が山積みになっている。荷物を預け、ボランティアの本部の専修大学に向かう。駐車場は、まだテントもなく、車も20台くらいだった。その後、ここは、ボランティアのたくさんのテントと車で埋まる。昼だというのに、受け付けは終了。まだ機能していないようだ。駐車場の遠くの県の人におにぎりを渡す。「まだ、何も食べていませんでした。ありがとうございます。」と言われる。「こちらこそ、感謝」と言う。

3/28・・・午前中、先輩養護教諭宅の泥だし。午後、物資を避難所になっている学校5カ所に運ぶ。「靴だけください」「本だけください」「全て置いていってください」「いりません」などと受付で言われる。避難所の学校では、教職員が物資の管理もしているようだ。泥だらけの姿で日和山から変わり果てた市街地を見る。「何と言うこと」言葉が出ない。通行止めや町が変わってしまって、道を間違え間違え、廃墟の工場地帯を通って帰る。
  
3/30・・・仲間が「避難所は野菜不足だ」と言い、炊きたてご飯とつぼみ菜の浅漬け約100人分を軽トラックに積み、街角に立ち手渡す。「嬉しい」と顔を輝かせてくれる。手を引かれて歩いていた子どもの顔も、瞬時に輝いた。女性は皆「家族の分もいいですか」ともらっていくが、高齢の男性の中には「今食べたからいらない」と断る人もいる。この日も日和山に向かうが、2日前には通れた道が、通行止めで迷う。破壊され、モノクロに変貌した商店街、工場をさまよい、日和山に着く。2日前と同じく、変わり果てた市街地を見る。

                                  (次号へ続く)

 

「養護教員」としての職域を越える

2024年2月22日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

被災地の養護教員の皆さん、誰かと話していますか?「こんなことがあって、大変なの」「こんなときどうしたらいいの?」「どうしたらいいかわからなくて」「毎日こんなことしているのよ」と、仲間に話していますか?同じ養護教員同士、愚痴をこぼしてください。話すだけでいいんです。それだけで心は軽くなります。

復興まで、まだまだ時間がかかるでしょう。それを乗り越えるためにも、仲間に支えてもらってください。みんな応援していますからね。

 

大きな災害が起きた直後、避難所になっている学校には、たくさんの人が避難してきます。それらの人がけがをしていたり体調不良を訴えたりした場合、そこから直接医療機関に搬送することができなければ、その対応は否応なく養護教員に求められます。

3,11の時は、津波が医療機関への移送を妨げ、養護教員に様々な対応が求められました。

自宅で地震のためにストーブが倒れ、やけどを負った人もいました。今回の能登半島地震でもお子さんが同様にやけどを負い、医療機関に入院することができずに亡くなる、という報道がありましたが、3,11の時は医療機関にすらかかることができませんでした。

また、水に濡れて低体温症になった人はたくさんいました。津波に流された木材の間を漂ったことで、大きな傷を負った人もいました。

こういった人たちへの対応の多くが、養護教員に求められました。

対応を間違えば、命の危機を招くかもしれない救急処置を、医師でも看護師でもない養護教員がせざるを得ない状況がそこにはありました。

さらに出産。避難所にやってきた妊婦さんが真夜中に産気づき、明かりも水もお湯もない中、そしてもちろん産婦人科の医師も助産師もいない中、避難してきた人の中の2~3人の看護師さんと一緒に、若い養護教員が出産の手伝いをしたのです。

また、津波による海水に囲まれ、建物の屋上で地域の住民と一緒に一夜を過ごし、翌日ヘリコプターで1人ずつ病院に運ばれる際に、「だれをどの順番で運ぶか、決めて欲しい」と言われたのも養護教員でした。「ここに避難している人間の中で、あなたが一番医学知識があるから、あなたが決めてくれ」と説得されたそうです。もしその順番を間違えば、助けられたはずの人が亡くなるかもしれない、という不安を抱えながら、トリアージをするしかなかったのです。

つまり、養護教員である、ということは、3,11のような緊急事態には、その職域を越えた役割を求められる可能性がある、ということです。何とか対応できるケースもあるかもしれませんが、失敗する可能性もあります。

しかし、「私にはできません」と断って、さらに悪化したらどうなるのだろう。

いざとなったら覚悟して対応するしかないかもしれません。現に3,11の時は多くの養護教員がその職域を越えて、けがや病気などに対応していました。でももし失敗したら養護教員に責任はとれるのか。一生後悔することにならないか。

緊急事態になれば、養護教員とは、そういう職業であるということも、厳しいですが現実です。

最後にお一人の養護教諭を紹介します。

この方は3,11のあの日、体調を崩して病院に行った後に出勤したそうです。その後、地震がやってきました。動揺する子どもたちに寄り添いながら声をかけ、不安を取り除こうと対応しながら避難しようとして、子どもたちの列の最後尾にいたその養護教諭も、子どもたちも、地震の後にやってきた津波にのみ込まれました。この養護教諭は、宮城県の大川小学校に勤務されていました。

3,11で唯一亡くなられた養護教諭です。

 

 

3,11からの教訓

2024年2月21日

カテゴリ:その他

「子どもの命と向き合う学校防災」(数見隆生著 かもがわ出版)から、引き続き引用したいと思います。
この内容は、今回の能登半島地震だけでなく、これから起きるであろう様々な災害の際に共通する内容だと思いますので、ぜひ全国の養護教員の皆さんに知っておいて欲しい内容でもあります。

「取材した養護教諭の中には、今回の体験から教訓として次のようなことを語ってくれる方がいた。

1,子ども対応では震災直後の緊急事態では十分なケア活動は出来なかったが、不安におびえる子どもたちに『寄り添う』という行為を貫けただけでも貴重な経験であった。養護教諭に何ができるかということではなく、一人の人間としてどう関われるか、どう関われたのかということこそが重要であった。

2,学校再開後に子どもたちが示した事態に対応する心のケアの研修は全く不十分だった。また、県外からのカウンセラーの派遣が積極的になされたが、ありがたい反面、現場でうまく活用されず、逆に負担になることもあった。

3,避難者対応では、養護の免許しか持っていない自分がこんな大負傷をした人に対して、救急処置として治療行為をしていいのか、とすごく戸惑いながらも何もしないわけにはいかなかった。

4,避難者対応では、地域行政の機能が不十分であり、教職員がフルに回転した。何日も自宅に帰れない養護教諭もいた。多忙だったが、体温計と血圧計だけでも機能したし、ありがたがられた。」

(項目の番号はミルミルが追加)

4つの項目の中からも、すでにたくさんの教訓を得ることができると思います。「養護教員はカウンセリング的手法や知識は持っていても、カウンセラーではない」と以前も書きましたが、子どもたちと一緒に暮らしていた教員、養護教員ならではの対応は、やはり「一人一人と寄り添う」ことであり、それが大きな力を発揮するということです。

保健室には体温計と血圧計は備えておく、とか、災害時の行政の体制を確認しておくとか、事前にできる準備はありそうです。

しかし、「3」の項目については、どう考えればいいのでしょうか。
看護師でも医師でもない養護教員が、命の選択に関わらざるを得ない状況が起きたとき、どうすればいいのか。

次回は、3,11の時にどんなことが起きていたのかを紹介したいと思います。