2024年3月11日

2024年3月11日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

13年前、年度末の進学や進級、出会いと別れのシーズンを迎え、希望に満ちていた3月11日を襲った地震と津波・・・あの日がまたやってきました。
改めて、犠牲になったたくさんの方に心より哀悼の意を表します。

13年経っても復興が全く進まない地域もあり、特に福島県の放射性物質が残ったままの地域は、時間の流れの中に飲みこまれそうな気配すらあります。でも、「フクシマ」を絶対に忘れてはいけない。

一方で、3,11以前とは違った形で、前に進んだ地域もあります。

「還暦以上は口を出さない」方針で、地域の復興に取り組んだ女川町もその一つです。

女川町では、震災から8日目に民間の有志がプレハブ住宅に集まり、町づくりの準備会が開かれています。
まず、この迅速さに驚きです。
女川町で3,11の被害が少なかったわけではありません。15メートルほどの津波が押し寄せ、200人を超える方が亡くなりました。そして4000棟を超える住居が津波の被害を受けた海沿いの町が女川です。

その女川町では「復興に10年、定着まで10年かかる。20年後に女川で生活する30代、40代に町づくりを任せる」という方針をとり、1ヶ月後には「女川復興連絡協議会」が結成されたのだそうです。

つまり、若い力が地域の復興を支え、町を新たな形に作り替えていったのです。
できあがったのは、以前の女川とは違った様子の町でした。

「口を出さない」と決めた還暦以上の皆さんもすごいですが、それに答えた若者たちの力にも感心します。
そう考えると、今学校現場にいる子どもたちも、地域を支え、新たな町づくりを進める力を持っているということになります。

能登半島地震でも、きっとこれからの地域を支えていくのは、若い力だろうと思います。
高齢化や少子化は確かに問題ではありますが、目の前にたくさんの子どもたちがいるのも事実です。その一人一人が、能登半島地震の被災地を復興する力を持っているのです。

私たち教職員は、そういった未来の担い手を育てている責任を忘れてはいけないと思います。

ただ、女川町にも福島や石川と同様原子力発電所があります。
女川原発は福島第一原発とは違って、同じ海沿いでも海抜13メートルの少し高台にありました。そのため、被害も大きくなく、幸いにも福島第一原発のような状況に陥らずにすみました。

もし、女川原発で福島と同様の被害が出ていたら、今の女川町はきっと有り得なかったと思います。

新しい町づくりは若い力に任せることができますが、今あるふるさとをその若い力に引き継いでいくことは、大人が責任を持ってしなければいけないこと、ではないでしょうか。

未来は必ずやってきます。
どんな未来になるのか、それを決める力を私たち一人一人が持っているのです。
もちろん、あなたも・・・。

 

 

 

 

 

 

被害を少しでも減らすために 2

2024年2月29日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

前回に続き、チェック項目。

「Ⅱ、ソフト面のチェック項目
1,教育計画書に学校防災マニュアルがあり、津波への対応が書かれているか。
2,津波を想定した避難の指導・訓練が行われているか。
3,登下校中に津波が発生したときの対応は行われているか。
4,子どもたちに津波に関する防災意識を育てる教育(授業や学活指導等)を実施しているか。
5,職員会議やPTAの会合で、津波を含む防災に関する協議を行っているか。
6,震災発生時の情報収集の仕方は誰がどのように行い、どう共有するか決めているか。

Ⅲ、学校と家庭・地域との連携面のチェック項目
1,震災時における保護者との連絡体制や引き渡しのルールが明確になっているか。
2,津波防災に関して家庭(保護者)との情報交流をどの程度行っているか。
3,子どもたちが家庭にいたときに津波が発生した場合の働きかけを保護者に行っているか。
4,学区内では学校を含む地域ぐるみ(地域組織・行政等)で防災活動はなされているか。
5,行政による学区内にある津波時の避難場所や危機情報等の条件整備・情報提供をどう思うか。
6,教育行政は教員を対象にした津波に関する防災研修を行っているか。    」

(以上「子どもの命と向き合う学校防災」(数見隆生著 かもがわ出版)、「学校防災のためのチェックリストとそれに基づく検討」より抜粋)

学校は災害時の避難場所に指定されていることが多いのですが、その指定はあくまで自治体の決定であり、学校が進んで引き受けたものではない、というのが現状です。そのため、学校が避難所として機能するかどうかの検討が十分とは言えず、3,11の時は避難所なのにもかかわらず、学校に津波が押し寄せてきた、という事例がかなりみられました。

津波が押し寄せれば1階に備蓄してあった災害対策用品は、あっという間に流されてしまいます。
そもそも備蓄品が十分あるかどうかも大きな問題になるでしょう。

今回の能登半島地震も同様でしたが、3,11の時も地震発生と同時に電気の供給が止まり、正確な情報を得られないケースもありました。携帯もつながらず、機転を利かせた先生がカーラジオではじめて津波の情報を把握した、という学校もありました。

また、3,11の時は、地震後に迎えに来た保護者に引き渡したことで亡くなってしまった子どもが100人近くいます。一方で、迎えに来た保護者に子どもを引き渡さず、親共々高台に逃れ、全員助かった学校もあります。

そもそも岩手県では、過去の地震や津波の経験から「津波てんでんこ」という教訓が言い伝えられています。津波が来たときは、それぞれが高台に逃げるように、という教訓です。

「釜石の奇跡」と取り上げられた宮城県釜石地区の小中学生が、互いに声を掛け合って一斉に避難する姿は、テレビ等でも取り上げられましたが、同様に釜石地区では自宅に1人でいた小学校1年生まで、真っ先に一人で高台に逃げていったそうです。
この小学校1年生は、事前に学校で教わっていた地震や津波の際の避難方法を思い出して行動したのです。

 


今回の能登半島地震に関する報道で、地震や津波に対する不安を抱いている子どもたちはたくさんいると思います。
「恐怖心をあおるから津波や地震の話はしない」では、救える命も救えません。
子どもたちが不安を抱いているからこそ、「そんな時はこうするといいよ」「こうすれば安全だよ」という情報をきちんと与えるべきだと思うのです。

繰り返しますが、「明日は我が身」です。過去の地震や津波の教訓を活かすことこそが、苦しい思い、悲しい思いをした多くの被災者の方の思いに答えることになるのではないでしょうか。

能登半島地震の被災者の皆さん、養護教員の皆さん、少しずつですが光は見えつつあります。
その光に向かって、歩いて行きましょう。

 

 

 

被害を少しでも減らすために 1

2024年2月28日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

1月1日の地震以降、3,11のフラッシュバックと同時に「3,11の教訓を伝えなければ」という思いで書き続けてきた「3,11からの伝言」ですが、2月で一度中断したいと思います。

もちろん、被災地の復興はまだまだだろうと思いますが、少しずつ光も見えつつあります。今後は、必要な情報があったときに、加筆していきたいと考えていますので、時々は覗いてみてください。

さて、最後に。

地震列島日本で、3,11の教訓を活かしていただくための内容を2回にわたってお伝えします。

「子どもの命と向き合う学校防災」(数見隆生著 かもがわ出版)より、「学校防災のためのチェックリストとそれに基づく検討」と題してある部分を抜き書きしてみます。

これは、3,11を経験した著者数見隆生先生が、その経験と、ご自身の出身地である和歌山県や東南海地震の被害地域を想定して、「学校の防災リスク」をチェックするためにまとめられた内容です。
全国、もちろん能登半島地震の被災地も含めて、全ての学校で実施されれば、今後起きるであろう自然災害の被害を少しでも少なくすることにつながります。

チェック項目は大きく3つに別れていて、それぞれに具体的な項目があり、さらに①~③までの条件が設定されていて、それによって総合判定ができるようになっていますが、ここでは項目のみを紹介します。

 

「Ⅰ,ハード面のチェック項目

1,学校所在地の海岸線からの距離
2,海からの河川の流入の有無
3,学校所在地の海抜
4,学校所在地のハザードマップで、津波時に浸水地域に入っているかいないか
5,学校近隣に避難しうる高台(山、丘、避難ビル等)の有無
6,学校校舎の階層及び避難可能な屋上の有無

ハード面の大きな指標として6つの項目を選定したが、中でも学校の所在地が高台にあると言うことがとりわけ大きな安心材料である。」

3,11の時は、自治体が作成したハザードマップは正確ではありませんでした。「津波到達地域」以外のところでも津波がやってきて、被害を出した学校はたくさんありました。いわゆる「想定外」がたくさん起きたことになります。
ですから、ハザードマップだけで学校の安全性を考えるのではなく、数見先生は6つの項目をその条件として設定する必要がある、と考えられたのだと思います。

 

 

後方支援「まちかど保健室」2

2024年2月27日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

4/1・・・炊きたてご飯、つけもの、うめぼし、お菓子、水などを軽トラックに積み、街角に立つ。壊れた家、倒れた木、水につかった家の間を歩きながら、人影を見つけると声をかける。「食べてください」疲れ切った顔が明るくなる。「今、この子等と流された家を見てきたんです」

それからずうっと、少なくとも週1回は食べたいだろうと思う心ばかりのものを、軽トラックに積み、被災地の街角に立った。軽トラックの周りには人々が集まってくれて、涙ながらに再開を喜び合うシーンもあった。顔なじみの方もでき「つけもののおばちゃん」「いなりずしくれた人」と言ってもらえるようになった。同時に「わたしたち、もうがんばれない」とか「避難所では泣けない。みんなつらいから」と涙をこぼす方もいた。それはまるで街角の保健室のようだった。そして、みんな泣くのを我慢している。必死に前を向こうとしている。子どもたちも何かを我慢している、と感じた。

4/18・・・あの日、屋上で一晩、500人以上の子どもたちが過ごしたK小学校に、掃除用具、駄菓子、先生方の昼ご飯、本を持ち、伺う。避難している子どもたちが3人、校庭で遊んでいた。雪の降るあの夜、先生方は屋上で机やロッカーを燃やした。暖を取るために。真っ暗な夜、救助の灯りとなるように。そして、子どもたちが流される人や車や家を見ないように。K小の養護教諭も対応してくれた。本当にみんな頑張っている。」

                          

宮城の仲間は、その後も「まちかど保健室」として被災地に立ち続けました。その中で本当に必要なのは物資以上に「愚痴をこぼせるところ」「何でも言えるほっとする場所」であることに気づいていったようです。物資を運びながら、たくさんの人の話を聞く活動を続けたのです。

さらに被災地への支援以外に、小児科医である山田真さんの活動にも協力していました。山田さんは、当時福島の子どもたちの放射線被爆を何とかくい止めようと、自費で福島県や近隣の県で「健康相談」を実施していました。

現在、当時の仲間たちの多くは学校現場をリタイアしましたが、この活動は「まちかど」から宮城県涌谷町に舞台を移し、地域の皆さんが「ふらりと立ち寄れる心の安まる場所」としての「まちかど保健室」を運営しています。

支援の方法はいろいろあります。
そしてみんなが願っています。1日でも早く、復興しますように・・・・と。

後方支援「まちかど保健室」1

2024年2月26日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

昨日まで今年2度目の3連休でしたが、被災地の養護教員の皆さん、少しお休みできましたか?
自宅が被災しているようなら、もしかすると休日返上で後片付けをしていた方もいるかもしれません。
腰とか肩とか、痛くありませんか?湿布薬ありますか?遠くからミルミルが「エアマッサージ」しましょう。

今、石川県にはボランティアの方が入り始めているようですが、ライフラインや宿泊施設等の復旧が十分でないため、長時間ボランティアが働けず、なかなか作業が進まないようです。

3,11の時も、全国からたくさんのボランティアの方が来てくださいました。能登半島地震では行っていないようですが、3,11の時は教職員が、被災した小中学校の手伝いに入り、後片付けはもちろんのこと、授業にTTで入るなどの支援も行いました。

そして、全く違った方法で後方支援した人たちもいました。

動いたのは、宮城県内の比較的被害が少なかった地域の養護教員たちでした。

当時の様子を2回にわたって載せたいと思います。

 

「(2011年)3/27・・・軽トラックに、防寒着・下着・靴・水・おにぎり・クッキー等を山ほど積み石巻に行く。道は所々陥没し、倒壊した家や塀もある。やがて石巻市内に入る。津波で運ばれた泥で歩道が埋まり、国道も泥道で障害物が多い。この地に直後から、全国のボランティアが入っているというが、いったいどうやってきたのだろうと思う。道に大きな船が流されている。
  

先輩養護教諭の家の前は、流された車が山積みになっている。荷物を預け、ボランティアの本部の専修大学に向かう。駐車場は、まだテントもなく、車も20台くらいだった。その後、ここは、ボランティアのたくさんのテントと車で埋まる。昼だというのに、受け付けは終了。まだ機能していないようだ。駐車場の遠くの県の人におにぎりを渡す。「まだ、何も食べていませんでした。ありがとうございます。」と言われる。「こちらこそ、感謝」と言う。

3/28・・・午前中、先輩養護教諭宅の泥だし。午後、物資を避難所になっている学校5カ所に運ぶ。「靴だけください」「本だけください」「全て置いていってください」「いりません」などと受付で言われる。避難所の学校では、教職員が物資の管理もしているようだ。泥だらけの姿で日和山から変わり果てた市街地を見る。「何と言うこと」言葉が出ない。通行止めや町が変わってしまって、道を間違え間違え、廃墟の工場地帯を通って帰る。
  
3/30・・・仲間が「避難所は野菜不足だ」と言い、炊きたてご飯とつぼみ菜の浅漬け約100人分を軽トラックに積み、街角に立ち手渡す。「嬉しい」と顔を輝かせてくれる。手を引かれて歩いていた子どもの顔も、瞬時に輝いた。女性は皆「家族の分もいいですか」ともらっていくが、高齢の男性の中には「今食べたからいらない」と断る人もいる。この日も日和山に向かうが、2日前には通れた道が、通行止めで迷う。破壊され、モノクロに変貌した商店街、工場をさまよい、日和山に着く。2日前と同じく、変わり果てた市街地を見る。

                                  (次号へ続く)

 

「養護教員」としての職域を越える

2024年2月22日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

被災地の養護教員の皆さん、誰かと話していますか?「こんなことがあって、大変なの」「こんなときどうしたらいいの?」「どうしたらいいかわからなくて」「毎日こんなことしているのよ」と、仲間に話していますか?同じ養護教員同士、愚痴をこぼしてください。話すだけでいいんです。それだけで心は軽くなります。

復興まで、まだまだ時間がかかるでしょう。それを乗り越えるためにも、仲間に支えてもらってください。みんな応援していますからね。

 

大きな災害が起きた直後、避難所になっている学校には、たくさんの人が避難してきます。それらの人がけがをしていたり体調不良を訴えたりした場合、そこから直接医療機関に搬送することができなければ、その対応は否応なく養護教員に求められます。

3,11の時は、津波が医療機関への移送を妨げ、養護教員に様々な対応が求められました。

自宅で地震のためにストーブが倒れ、やけどを負った人もいました。今回の能登半島地震でもお子さんが同様にやけどを負い、医療機関に入院することができずに亡くなる、という報道がありましたが、3,11の時は医療機関にすらかかることができませんでした。

また、水に濡れて低体温症になった人はたくさんいました。津波に流された木材の間を漂ったことで、大きな傷を負った人もいました。

こういった人たちへの対応の多くが、養護教員に求められました。

対応を間違えば、命の危機を招くかもしれない救急処置を、医師でも看護師でもない養護教員がせざるを得ない状況がそこにはありました。

さらに出産。避難所にやってきた妊婦さんが真夜中に産気づき、明かりも水もお湯もない中、そしてもちろん産婦人科の医師も助産師もいない中、避難してきた人の中の2~3人の看護師さんと一緒に、若い養護教員が出産の手伝いをしたのです。

また、津波による海水に囲まれ、建物の屋上で地域の住民と一緒に一夜を過ごし、翌日ヘリコプターで1人ずつ病院に運ばれる際に、「だれをどの順番で運ぶか、決めて欲しい」と言われたのも養護教員でした。「ここに避難している人間の中で、あなたが一番医学知識があるから、あなたが決めてくれ」と説得されたそうです。もしその順番を間違えば、助けられたはずの人が亡くなるかもしれない、という不安を抱えながら、トリアージをするしかなかったのです。

つまり、養護教員である、ということは、3,11のような緊急事態には、その職域を越えた役割を求められる可能性がある、ということです。何とか対応できるケースもあるかもしれませんが、失敗する可能性もあります。

しかし、「私にはできません」と断って、さらに悪化したらどうなるのだろう。

いざとなったら覚悟して対応するしかないかもしれません。現に3,11の時は多くの養護教員がその職域を越えて、けがや病気などに対応していました。でももし失敗したら養護教員に責任はとれるのか。一生後悔することにならないか。

緊急事態になれば、養護教員とは、そういう職業であるということも、厳しいですが現実です。

最後にお一人の養護教諭を紹介します。

この方は3,11のあの日、体調を崩して病院に行った後に出勤したそうです。その後、地震がやってきました。動揺する子どもたちに寄り添いながら声をかけ、不安を取り除こうと対応しながら避難しようとして、子どもたちの列の最後尾にいたその養護教諭も、子どもたちも、地震の後にやってきた津波にのみ込まれました。この養護教諭は、宮城県の大川小学校に勤務されていました。

3,11で唯一亡くなられた養護教諭です。

 

 

3年後の3,11

2024年2月19日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

昨日は、能登半島地震で亡くなられた方の49日だったとのこと。
突然の旅立ちに、亡くなられた方もご家族の方も、きっとたくさんの心残りがあったことでしょう。
亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りします。

3,11の後、被災地だった岩手県大槌町に「風の電話」と呼ばれる電話ボックスが設置されたことをご存じですか?

中にあるのは黒電話。もちろん電話線はつながっていませんが、天国にいる大切な人と話すために作られた真っ白な電話ボックスで、お花畑のまん中にたっています。
そして、たくさんの方がこの電話ボックスにやってきて、天国に電話をかけています。
心の傷は、きっと13年経った今でも癒えることはないのかもしれませんが・・・。

 

こうした癒えない様々な傷を、3,11から3年後に調査したデータがあります。

東北地方の新聞社が実施したもので、宮城県内の沿岸部の公立小中学校245校が対象です。その結果が「子どもの命と向き合う学校防災」(数見隆生著 かもがわ出版)に載っていますので、それを抜粋して紹介します。この調査は、3,11から3年後に行われました。

「学校内に『震災の影響はあるか』の問いでは『ある』としたのは69%で、『ない』は23%であった。

(略)その『影響』の具体的事項としては、多い順にあげると『家計が苦しい児童生徒』63%、「家庭学習の場が確保できない』53%、『家庭問題での精神的ストレス』41%、『震災問題からの精神的不安』39%、『体力低下』33%、『学力低下』20%、『部活動や遊び場がない』20%、『集中力の低下』17%、などであった。

中学生だけでは『進路や将来への不安』『不登校の増加』が多かった。

また、教職員の問題としても、『精神的ストレスを訴える』ことや『仕事の負担を訴える』状況があり、『クレーマーの保護者の増加』に苦慮している状況もうかがえた。

そして校長たちは、こうした事態を『深刻であり長期化する』と思っているのが57%で、『深刻だが解決に向かっている』としたのは27%で、『深刻な事態はほぼ解消』は7%に過ぎなかった。」

3年後の能登半島地震被災地の学校では、この3,11の状況が少しでも改善されているように、できるところから取り組んで頂けたら、と願わずにはいられません。
内容によっては、行政に強力に要求していく必要もあるかもしれません。

特効薬はありません。これまでの記事で繰り返してきたように、「一人一人の子どもや家庭に寄り添って」いくしかないのでしょう。でも、あちこちで息抜きもしながら、そして仲間と支え合いながら、進む道は必ずあります。

3,11も、そうやって乗り越えてきたのですから。

 

「明日は我が身」

2024年2月18日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

3,11の時、岩手や宮城、福島の沿岸部では、膨大な津波被害がありました。この時、地震による家屋倒壊より津波被害が圧倒的に大きかったと言われています。
能登半島地震で発生した災害がれきは、現在244万トンと言われていますが、3,11の時は3県で1694万トンでした。津波被害を受けて一面瓦礫の山となった被災地の光景を、私は今もはっきりとおぼえています。

日本国内では、今回の能登半島地震のような被害が「起きない場所はどこにもない」と言われています。
つまり、今回の能登半島地震のような被害は、明日あなたの身に起きるかもしれない、ということです。

東南海トラフ地震、首都直下地震、富士山噴火・・・・かく言うミルミルの地元にも、活動可能性が高いと指摘されている大きな活断層があります。

今回の能登半島地震は、1月1日の休日の発生、2016年の熊本地震は平日の夜、そして3,11は平日の午後。地震の被害が中心だった能登半島地震と熊本地震とは違い、津波被害が大きかった3,11。

あなたが住んでいる地域は、どのタイプの地震になりそうですか?

もちろん、発生曜日や時間を選ぶことはできませんが、津波の被害がありそうな地域、地割れや崖崩れが中心になりそうな地域、家屋の倒壊が多発しそうな地域、孤立しそうな地域、大都会で木密地域がすぐ近くにある地域など、地域の特徴に合わせて、「その時どうするか」を事前にシミュレーションしておきましょう。

3,11の時は、津波の被害を想定しなかったところでは、避難用具が1階に保管されていたため、すべてが津波に流されなんの役にも立たなかった、という意見がありました。
「救急車が横付けしやすいように」との理由で1階に作られていた保健室は、津波で薬品庫もベッドも机も流されてしまったのです。

もし、皆さんの学校に津波の危険性があるのなら、できるだけ高いところに避難用具を保管する必要があるでしょう。その中にはもちろん、救急処置用の品物も入れておいてください。しかもその処置は子どもたちが対象ではなく、おとなを対象にする可能性もあります。

学校の校舎そのものは、比較的耐震化されているでしょうから、一気に潰れる、ということはないのかもしれませんが、火災で焼失する可能性はあるでしょう。グラウンドが「火除け地」になってくれればありがたいのですが、そうはいかないところもあるはずです。

燃えてしまったら、一気に全てがなくなってしまいます。

次々と危機感をあおるような書き方をしてしまいましたが、今回の能登半島地震の教訓を活かして、全国の養護教員の皆さんが災害に対する可能な限りの準備をしておく、ということが、一番大切なことではないかと思うのです。

日本人は大昔から地震や噴火と何度も向き合い、そこから立ち直って今の社会を形成してきたのです。きっとこれから先も、自然災害を乗り越えていくことでしょう。もちろん、石川県や富山県、新潟県のみなさんも。

全国の養護教員の皆さん、「明日は我が身」ですよ。

 

家族の分断

2024年2月15日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

応援メッセージです。

東日本大震災のとき、ボランティアとして福島から避難してきた皆さんのお世話をしたことがあります。体育館にたくさん人がいるのに、全体が静まりかえった、落ち込んだ光景を今でも思い出します。どんな声をかけても無駄なような気がしていました。でも、周りの人はみんな、心の中では応援しています。頑張りましょう。

山形県 養護教諭 N・M

 

かぜをひいて、3日ほど寝込んでしまいました。普通に生活していても体調を崩しやすい時期、被災地の皆さんが心身共に溜め込んでいる疲れは計り知れません。少しでもいいから、休んでくださいね。

今回の能登半島地震とは違い、3,11の時は原発事故という取り返しのつかない事象がおきていました。応援メッセージを寄せてくれた仲間のように、山形には福島からたくさんの方が避難してきました。

最初は家族みんなで避難してきていたのですが、除染等が進むにつれ、母親と子どもが山形に残り、父親だけが仕事をするために福島に住む、という家庭が増えていきました。

原発事故で大気中に放出された放射性物質の影響は、子どもに大きな健康被害を引き起こします。事実、福島では「甲状腺癌」が見つかった子どもたちがいるのです。

そのため、多くの親は、子どもたちに放射性物質の影響が少ない土地で暮らさせたい、と考え、母親と子どもが山形に住み、仕事をして生活を支えるために父親は福島に帰り、家族が分断されて生活をする、という状況が生まれてしまったのです。

山形に残った家族のうち、母親は毎日の生活を送るのに精一杯だった人がたくさんいました。当然ですよね。慣れない土地、雪も福島に比べればたくさん降ります。必要な日用品や家具の手配、様々な届け出などを一人でこなさなければならなくなります。

ここまで説明すれば、養護教員の皆さんなら子どもたちにどんな変化が起きるか、想像がつきますよね。そうです。「これ以上母親に心配かけてはいけない」と考えて、子どもたちは我慢に我慢を重ねるようになっていきます。

また、多ければ週に1回、少ないと月に1回くらいしか会えない父親が山形にやってきて、楽しい時間を過ごした後、福島に戻ってしまう父親との離別に影響を受ける子どもたちもいました。
月曜日は元気がなく体調不良を訴えたり、ちょっとしたことで涙ぐんでしまったり、登校したがらなくなったり・・・。

場合によっては、放射性物質に関する意見の食い違いから、両親が離婚せざるを得ないケースすらありました。

3,11が壊したものは、人の命や建物だけではないのです。

 

2016年11月に、ミルミルは福島県南相馬市を訪れたことがあります。南相馬市自体は復興が進み、人が普通に住める場所でしたが、そこに行くまでの経路に放射性物質の汚染による「立ち入り禁止区域」が含まれていました。この日はバス移動でしたが、「立ち入り禁止区域」に入る手前でバスは一度休憩し、その後「窓を開けないでください」と運転手さんの注意を受けて、再度出発しました。

窓の外に広がるのは、他の地域とは何ら変わりのない森や田んぼ、民家です。おうちの中からは今にも誰かが出てきて、庭先で会話をしていそうな光景が、そこにはありました。
3,11の直前までは、ここでごくごく普通にたくさんの人が暮らしていたはずなのに・・・と思うと、涙が出て止まりませんでした。

能登半島地震でも、志賀原発でトラブルがあったようですが、もしこれが最も被害の大きかった珠洲市にできていたらどうなっていたのでしょうか。考えたくもありません。でも、考えなければいけないのです。日本は地震列島。その上に、数多くの原発が乗っかっているのです。

 

 

家庭環境の変化

2024年2月11日

カテゴリ:3,11からの伝言, その他

応援メッセージです。

被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。さぞかし苦しい1か月だったことでしょう。本校でも復興に役立てればと募金活動を行いました。微力ながら応援の気持ちと一緒に届いてほしいと願っています。

山形県 養護教諭 叶内 実佳

 

二次避難の場所から、2月末、あるいは3月末までに移動を迫られている、という報道がありました。その理由は北陸新幹線が延伸されるから・・・。もちろん、金沢などの観光業の皆さんも大変なのでしょう。
わかってはいてもこの理由は・・・なんとも言えません。

でも、避難所生活が長く続き、仮設住宅ができあがるまで避難所にいることができた3,11の時とは、今回は状況が違うようです。

3,11で避難生活が長くなった数ヶ月後に起きていたことをお伝えします。

この頃、子どもたちの環境、というよりは、大人の環境が大きく変化していました。
今の被災地の状況のように、住み慣れた地元にいるには仮設住宅がたりない、住む場所がない、仕事もいつ再開されるかわからない、そして別の土地に移住するにしても、親の仕事がない、つてもない。

手の打ちようのない厳しい状況は、当然子どもたちにも影響を与えます。

そもそも3,11の時は、子どもたち自身が例えようもない恐怖や失望感、喪失感を持っていた上に、大人たちの混乱は、さらに拍車をかける事態になりました。

学校では友達と会え、一時的ではあっても笑顔が増え元気に見える子どもたちでも、一旦家族の元に帰れば、大人たちの不安顔を見て過ごすことになります。

避難生活が長引くにつれて、家や仕事を失い途方に暮れ、親が落ち込んだり荒れたりする状況を見ている子どもたちが増えていき、子どもたちも不安定になっていきました。親の経済的苦労を目の当たりにして、深刻に感じ取っている子どももたくさんいました。
そのため、生活リズムが崩れたり、ゲームだけに夢中になったり、家族に反抗したり、進路に不安を強く感じたり、「これからどうなるのだろう」という大人の不安をそのまま感じている子どももいました。

こんな子どもたちに、どのように向き合ったのでしょうか。

教員が家庭の状況に入り込むのは、とても難しいことですが、多くの養護教員たちが、子どもと同時に親や家族(祖父母、兄弟姉妹など)との会話を通して、それぞれに寄り添っていきました。
会話を通して家庭環境の変化に気付くこともできました。

環境そのものを変えることはできないけれど、思いを共有すること、苦しさを聞いていくことで、子どもや大人を支えていったのです。

もちろんこれらの問題は、簡単に解決するものではありません。心の傷だって、本当に癒えるには何年もかかるのでしょう。
でも、苦しいときに話を聞いてくれる、気遣ってくれる、寄り添ってくれる人がいる、というそれだけでも子どもにとっても大人にとっても心の支えになると思うのです。

ちょっとした短い言葉だけでもいいので、子どもたちや家族の方に声をかけてあげてください。
人と人の繋がりは、きっと力を与えてくれると思います。