「養護教員」としての職域を越える
被災地の養護教員の皆さん、誰かと話していますか?「こんなことがあって、大変なの」「こんなときどうしたらいいの?」「どうしたらいいかわからなくて」「毎日こんなことしているのよ」と、仲間に話していますか?同じ養護教員同士、愚痴をこぼしてください。話すだけでいいんです。それだけで心は軽くなります。
復興まで、まだまだ時間がかかるでしょう。それを乗り越えるためにも、仲間に支えてもらってください。みんな応援していますからね。
大きな災害が起きた直後、避難所になっている学校には、たくさんの人が避難してきます。それらの人がけがをしていたり体調不良を訴えたりした場合、そこから直接医療機関に搬送することができなければ、その対応は否応なく養護教員に求められます。
3,11の時は、津波が医療機関への移送を妨げ、養護教員に様々な対応が求められました。
自宅で地震のためにストーブが倒れ、やけどを負った人もいました。今回の能登半島地震でもお子さんが同様にやけどを負い、医療機関に入院することができずに亡くなる、という報道がありましたが、3,11の時は医療機関にすらかかることができませんでした。
また、水に濡れて低体温症になった人はたくさんいました。津波に流された木材の間を漂ったことで、大きな傷を負った人もいました。
こういった人たちへの対応の多くが、養護教員に求められました。
対応を間違えば、命の危機を招くかもしれない救急処置を、医師でも看護師でもない養護教員がせざるを得ない状況がそこにはありました。
さらに出産。避難所にやってきた妊婦さんが真夜中に産気づき、明かりも水もお湯もない中、そしてもちろん産婦人科の医師も助産師もいない中、避難してきた人の中の2~3人の看護師さんと一緒に、若い養護教員が出産の手伝いをしたのです。
また、津波による海水に囲まれ、建物の屋上で地域の住民と一緒に一夜を過ごし、翌日ヘリコプターで1人ずつ病院に運ばれる際に、「だれをどの順番で運ぶか、決めて欲しい」と言われたのも養護教員でした。「ここに避難している人間の中で、あなたが一番医学知識があるから、あなたが決めてくれ」と説得されたそうです。もしその順番を間違えば、助けられたはずの人が亡くなるかもしれない、という不安を抱えながら、トリアージをするしかなかったのです。
つまり、養護教員である、ということは、3,11のような緊急事態には、その職域を越えた役割を求められる可能性がある、ということです。何とか対応できるケースもあるかもしれませんが、失敗する可能性もあります。
しかし、「私にはできません」と断って、さらに悪化したらどうなるのだろう。
いざとなったら覚悟して対応するしかないかもしれません。現に3,11の時は多くの養護教員がその職域を越えて、けがや病気などに対応していました。でももし失敗したら養護教員に責任はとれるのか。一生後悔することにならないか。
緊急事態になれば、養護教員とは、そういう職業であるということも、厳しいですが現実です。
最後にお一人の養護教諭を紹介します。
この方は3,11のあの日、体調を崩して病院に行った後に出勤したそうです。その後、地震がやってきました。動揺する子どもたちに寄り添いながら声をかけ、不安を取り除こうと対応しながら避難しようとして、子どもたちの列の最後尾にいたその養護教諭も、子どもたちも、地震の後にやってきた津波にのみ込まれました。この養護教諭は、宮城県の大川小学校に勤務されていました。
3,11で唯一亡くなられた養護教諭です。