後方支援「まちかど保健室」2

2024年2月27日

4/1・・・炊きたてご飯、つけもの、うめぼし、お菓子、水などを軽トラックに積み、街角に立つ。壊れた家、倒れた木、水につかった家の間を歩きながら、人影を見つけると声をかける。「食べてください」疲れ切った顔が明るくなる。「今、この子等と流された家を見てきたんです」

それからずうっと、少なくとも週1回は食べたいだろうと思う心ばかりのものを、軽トラックに積み、被災地の街角に立った。軽トラックの周りには人々が集まってくれて、涙ながらに再開を喜び合うシーンもあった。顔なじみの方もでき「つけもののおばちゃん」「いなりずしくれた人」と言ってもらえるようになった。同時に「わたしたち、もうがんばれない」とか「避難所では泣けない。みんなつらいから」と涙をこぼす方もいた。それはまるで街角の保健室のようだった。そして、みんな泣くのを我慢している。必死に前を向こうとしている。子どもたちも何かを我慢している、と感じた。

4/18・・・あの日、屋上で一晩、500人以上の子どもたちが過ごしたK小学校に、掃除用具、駄菓子、先生方の昼ご飯、本を持ち、伺う。避難している子どもたちが3人、校庭で遊んでいた。雪の降るあの夜、先生方は屋上で机やロッカーを燃やした。暖を取るために。真っ暗な夜、救助の灯りとなるように。そして、子どもたちが流される人や車や家を見ないように。K小の養護教諭も対応してくれた。本当にみんな頑張っている。」

                          

宮城の仲間は、その後も「まちかど保健室」として被災地に立ち続けました。その中で本当に必要なのは物資以上に「愚痴をこぼせるところ」「何でも言えるほっとする場所」であることに気づいていったようです。物資を運びながら、たくさんの人の話を聞く活動を続けたのです。

さらに被災地への支援以外に、小児科医である山田真さんの活動にも協力していました。山田さんは、当時福島の子どもたちの放射線被爆を何とかくい止めようと、自費で福島県や近隣の県で「健康相談」を実施していました。

現在、当時の仲間たちの多くは学校現場をリタイアしましたが、この活動は「まちかど」から宮城県涌谷町に舞台を移し、地域の皆さんが「ふらりと立ち寄れる心の安まる場所」としての「まちかど保健室」を運営しています。

支援の方法はいろいろあります。
そしてみんなが願っています。1日でも早く、復興しますように・・・・と。