2024年3月11日
13年前、年度末の進学や進級、出会いと別れのシーズンを迎え、希望に満ちていた3月11日を襲った地震と津波・・・あの日がまたやってきました。
改めて、犠牲になったたくさんの方に心より哀悼の意を表します。
13年経っても復興が全く進まない地域もあり、特に福島県の放射性物質が残ったままの地域は、時間の流れの中に飲みこまれそうな気配すらあります。でも、「フクシマ」を絶対に忘れてはいけない。
一方で、3,11以前とは違った形で、前に進んだ地域もあります。
「還暦以上は口を出さない」方針で、地域の復興に取り組んだ女川町もその一つです。
女川町では、震災から8日目に民間の有志がプレハブ住宅に集まり、町づくりの準備会が開かれています。
まず、この迅速さに驚きです。
女川町で3,11の被害が少なかったわけではありません。15メートルほどの津波が押し寄せ、200人を超える方が亡くなりました。そして4000棟を超える住居が津波の被害を受けた海沿いの町が女川です。
その女川町では「復興に10年、定着まで10年かかる。20年後に女川で生活する30代、40代に町づくりを任せる」という方針をとり、1ヶ月後には「女川復興連絡協議会」が結成されたのだそうです。
つまり、若い力が地域の復興を支え、町を新たな形に作り替えていったのです。
できあがったのは、以前の女川とは違った様子の町でした。
「口を出さない」と決めた還暦以上の皆さんもすごいですが、それに答えた若者たちの力にも感心します。
そう考えると、今学校現場にいる子どもたちも、地域を支え、新たな町づくりを進める力を持っているということになります。
能登半島地震でも、きっとこれからの地域を支えていくのは、若い力だろうと思います。
高齢化や少子化は確かに問題ではありますが、目の前にたくさんの子どもたちがいるのも事実です。その一人一人が、能登半島地震の被災地を復興する力を持っているのです。
私たち教職員は、そういった未来の担い手を育てている責任を忘れてはいけないと思います。
ただ、女川町にも福島や石川と同様原子力発電所があります。
女川原発は福島第一原発とは違って、同じ海沿いでも海抜13メートルの少し高台にありました。そのため、被害も大きくなく、幸いにも福島第一原発のような状況に陥らずにすみました。
もし、女川原発で福島と同様の被害が出ていたら、今の女川町はきっと有り得なかったと思います。
新しい町づくりは若い力に任せることができますが、今あるふるさとをその若い力に引き継いでいくことは、大人が責任を持ってしなければいけないこと、ではないでしょうか。
未来は必ずやってきます。
どんな未来になるのか、それを決める力を私たち一人一人が持っているのです。
もちろん、あなたも・・・。